真野恵里菜「春の嵐」:輝きを“一瞬”で終わらせたくない
2010年2月27日 音楽
つんくPが初めて真野さんの作曲担当、ついに来てしまった。
この「来てしまった」という表現は単なる氏へのアレルギーではない。
例えば、モーニング娘。、Berryz工房および℃-uteのように、彼が
結成当初から関わっているものについては全くの異論はないわけだし、
むしろ最近の娘。の楽曲は、かなり好みの部類に入っているくらいだ。
また、皆さんから批判の声が強いなかで、敢えて、つんく氏提供の
平野綾「涙 NAMIDA ナミダ」を推しているかといえば、彼女の歌声
の時の音程や鼻のかかり方が「かなり向いている」と思ったからだ。
(イメージでいえば、モーニング娘。にいる高橋愛さんタイプか?)
ただ、真野さんの外部の評価および筆者が好きであった理由は、
KAN作曲・三浦徳子さん作詞の楽曲に、ノスタルジーを醸し出す
真野さんの歌声という奇跡的なハーモニーを奏でていたからだ。
■ 事例1:真野恵里菜「乙女の祈り」
http://www.youtube.com/watch?v=2PV8laQAPJ8
KAN氏が自らの活動に専念したこともあってか、昨秋以降は作曲
から離れていて、それでも何とか片鱗を残そうという意識はあった。
だが、アルバム「Friends」は良い楽曲が揃いながらも良さであった
はずの歌い方が、ハロプロ風のそれに矯正されつつあることを感じた。
いや、筆者自身は昨年9月の1stコンサートツアーの際にも歌い方の
微妙な変化には気づいていた。今思えば、それを上達しているとして
とらえていたことは、大きなミステイクであったのかもしれない。。
■ 事例2:真野恵里菜「春の嵐」
http://www.youtube.com/watch?v=4Kgctk75dFM
そして、そうした嵐の前の予兆を感じながら、迎えた本作は
あの頃のまのえりが消えて、また別の真野さんが表れた。
「継続は力なり」とはよく言ったもので、継続性の放棄はすなわち
方向性のブレを感じさせる。今、大きなブレを感じずにはいられない。
この変化を是か非でいえば、やはり非である。インディー時代から
積み上げてきたものを森とすれば、そこをブルドーザーがなぎ倒し、
無理やりコンクリートで整地したような、そんな虚しささえ感じる。
楽曲そのものは悪くない。内容自体は最近のシングル曲では一番いい。
最近のつんくP楽曲っぽく、聞けば聞くほどよく感じる、スルメイカ型。
詞もサビのところの「♪視線が今嵐を呼ぶ」あたりは耳に残りやすいか。
再度書くけども、悪くはないんだ。だけど、コレジャナインダ。。
鳩山首相はよく「コンクリートから人へ」という言葉を用いているが、
コンクリートのように整備されてしまった楽曲と彼女の輝きを取り戻す
ためには「コンクリートからKANへ」ということで、KAN氏復帰しかない。
KAN氏自らの活動がひと段落してからが正念場、最後の望みをかけよう。
彼女は今年、演技にも力を入れていることから(今夏、明治座にも出演)
女優路線も活路を見出しつつある。私は、歌だけでなく多様なフィールド
活動をしてこそアイドルだと思ってるので、歓迎すべきところであるが、
やはり歌うアイドルが一番好きなのだ。だからこそ、両立を願うところだ。
なんか、こう考えると中川翔子の楽曲スタッフの聡明さには感服する。
「綺麗ア・ラ・モード」は必ずしも彼女の中ではヒット曲とはいえなかったが、
翔子ロックと並行して、「昭和アイドル楽曲」路線(筆者勝手に命名)を継続。。
■ 事例3:中川翔子「綺麗ア・ラ・モード」
http://www.youtube.com/watch?v=bMMza2rie5A
こういう柔軟性、真野さんでもできないかなと思う今日この頃です。
この「来てしまった」という表現は単なる氏へのアレルギーではない。
例えば、モーニング娘。、Berryz工房および℃-uteのように、彼が
結成当初から関わっているものについては全くの異論はないわけだし、
むしろ最近の娘。の楽曲は、かなり好みの部類に入っているくらいだ。
また、皆さんから批判の声が強いなかで、敢えて、つんく氏提供の
平野綾「涙 NAMIDA ナミダ」を推しているかといえば、彼女の歌声
の時の音程や鼻のかかり方が「かなり向いている」と思ったからだ。
(イメージでいえば、モーニング娘。にいる高橋愛さんタイプか?)
ただ、真野さんの外部の評価および筆者が好きであった理由は、
KAN作曲・三浦徳子さん作詞の楽曲に、ノスタルジーを醸し出す
真野さんの歌声という奇跡的なハーモニーを奏でていたからだ。
■ 事例1:真野恵里菜「乙女の祈り」
http://www.youtube.com/watch?v=2PV8laQAPJ8
KAN氏が自らの活動に専念したこともあってか、昨秋以降は作曲
から離れていて、それでも何とか片鱗を残そうという意識はあった。
だが、アルバム「Friends」は良い楽曲が揃いながらも良さであった
はずの歌い方が、ハロプロ風のそれに矯正されつつあることを感じた。
いや、筆者自身は昨年9月の1stコンサートツアーの際にも歌い方の
微妙な変化には気づいていた。今思えば、それを上達しているとして
とらえていたことは、大きなミステイクであったのかもしれない。。
■ 事例2:真野恵里菜「春の嵐」
http://www.youtube.com/watch?v=4Kgctk75dFM
そして、そうした嵐の前の予兆を感じながら、迎えた本作は
あの頃のまのえりが消えて、また別の真野さんが表れた。
「継続は力なり」とはよく言ったもので、継続性の放棄はすなわち
方向性のブレを感じさせる。今、大きなブレを感じずにはいられない。
この変化を是か非でいえば、やはり非である。インディー時代から
積み上げてきたものを森とすれば、そこをブルドーザーがなぎ倒し、
無理やりコンクリートで整地したような、そんな虚しささえ感じる。
楽曲そのものは悪くない。内容自体は最近のシングル曲では一番いい。
最近のつんくP楽曲っぽく、聞けば聞くほどよく感じる、スルメイカ型。
詞もサビのところの「♪視線が今嵐を呼ぶ」あたりは耳に残りやすいか。
再度書くけども、悪くはないんだ。だけど、コレジャナインダ。。
鳩山首相はよく「コンクリートから人へ」という言葉を用いているが、
コンクリートのように整備されてしまった楽曲と彼女の輝きを取り戻す
ためには「コンクリートからKANへ」ということで、KAN氏復帰しかない。
KAN氏自らの活動がひと段落してからが正念場、最後の望みをかけよう。
彼女は今年、演技にも力を入れていることから(今夏、明治座にも出演)
女優路線も活路を見出しつつある。私は、歌だけでなく多様なフィールド
活動をしてこそアイドルだと思ってるので、歓迎すべきところであるが、
やはり歌うアイドルが一番好きなのだ。だからこそ、両立を願うところだ。
なんか、こう考えると中川翔子の楽曲スタッフの聡明さには感服する。
「綺麗ア・ラ・モード」は必ずしも彼女の中ではヒット曲とはいえなかったが、
翔子ロックと並行して、「昭和アイドル楽曲」路線(筆者勝手に命名)を継続。。
■ 事例3:中川翔子「綺麗ア・ラ・モード」
http://www.youtube.com/watch?v=bMMza2rie5A
こういう柔軟性、真野さんでもできないかなと思う今日この頃です。
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