暇つぶしで書き溜めてたものです。本当は野球飲みのときに語るネタに使おうと
思ってたんですが、日本一がかかっていたので(笑)この先はまだメモ書き程度です。
例によって異論反論はどうぞどうぞ、身内の野球者は見識がしっかりしている方々なので。
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■ 前提・仮説1:日本におけるオリンピック至上主義
日本に限ったことではないだろうが、国単位でのスポーツとスポーツ競技者を
見てみたときに、その多くのスポーツがアマチュアスポーツであり、プロ契約
した選手が少ないことが見受けられる。近年、陸上競技や柔道でも導入が検討
されているプロシステムだが、現段階では実業団ないしは専業とは別の競技団
に所属するアマのトップ選手が代表選手として派遣されているのが現状である。

そのせいか、スポーツ=五輪のイメージが非常に定着している。東京五輪までは
やはり国家発揚的な行事であったことは否定できないが、それ以降の五輪大会でも
五輪は他国と比較しても非常に高い位置づけを占めてきたため、スポーツの世界で
オリンピック市場主義が指摘できると思う。

比較対象として、アメリカという国を挙げてみよう。例えば、アメリカの場合は
今五輪ではマイケル・フェリプス選手の活躍が際立ったとされるが、一方で国内の
では盛り上がりに今一つ欠けていたという。筆者はこれがアメリカはプロスポーツが
非常に盛んであることからギリギリ冷戦構造下hあったとして、今は国家発揚行事とも
いえず、一部競技を除けば、さほど重要視されていないのではないかと考えている。
(例外として、水泳競技の決勝が午前中だったのはアメリカの働きかけによるものだ)
また、欧州や南米といった地域でも五輪とはまた異なったワールドカップという大きな
国際大会の存在も無視することができない。

各国と比較した国際大会やスポーツ環境のチャンネルが少ないことと、一方で、
多様なスポーツでの裾野を広げている日本という国のスタイルにおいて五輪というのは
国民の間で親しみと注目を浴びている行事として認識されていると私は考えている。


■ 前提・仮説2:アテネ五輪前の五輪野球の位置づけ
日本の中でプロスポーツとして長い歴史を持っているのは野球と相撲である。
余談だが、相撲は日本最古のプロスポーツであり、成功を収めている興業スポーツ
であると考えている。相撲ほどの歴史はないが、プロ野球も半世紀以上の歴史を持つ。

一方、五輪野球の歴史は公開競技として始まったのでさえ野球大国・アメリカで開催した
ロサンゼルス五輪以降であり(公開競技は開催国のお家芸のような競技を入れるものらしい)
言うなれば、五輪競技の中でも歴史が浅いものだ(ここが実はサッカーとの違いでもある)

日本野球界においてプロ解禁以前の五輪野球競技は、さほど注目されなかったと考えられる。
もちろん、五輪競技=アマチュア選手にとって世界最高峰の位置づけ、目標であることには
疑いはないが、日本の野球界において、その上に歴史あるプロ野球があったからである。

■ 仮説1・2の整理
日本において国威発揚としての機能を終えてもなお、オリンピックは国家的イベントとして
注目されている。それは日本のスポーツ競技とアスリートの大半がアマチュア競技者であり、
五輪が最高峰として位置していることも大きく作用している。その一方で、野球は例外的に
プロスポーツとして日本で醸成された競技として、99年までピラミッド構造上、プロ>五輪が
決定づけられていたと考えることができる。

■ 現状分析1:プロ解放以降の五輪野球に対する意識の変化
棲み分けができていたせいではないだろうが、知っての通り日本は公開競技時代を除いて
金メダルを獲得していない(金メダルを獲得した時も予選敗退も、キューバのボイコットで
繰り上げ参加である。記事資料としてはNumber709 710号の「あの金メダルをもう一度」を
挙げておく。筆者の身内の方で読みたい方がいらっしゃれば、コピーを差し上げます)しかし、
アマとしては群を抜いていたキューバ(アジア内では台湾)が君臨していたこともあってか、
さほど話題にされていたことはない(余談だが伊藤智仁VSジェイソン・ジアンビーなど、
今考えると奇跡のような、野球ファン生唾ものの対戦もあったりする。ソフト化希望(笑)。

結果的として、現在の五輪野球の位置づけの基礎となったのはシドニー五輪のプロ解放以降だ。
そして、それが本論文における日本代表の土台と言ってもいい。WBCというフットボールにおける
W杯に近い(これはあくまで近いわけで同じ位置とはいえない)国際大会が開催され、昨今の世論も取り分けWBC日本代表だが、たたき台として、それまでの日本代表の歴史を忘れてはならない。

プロ参加が認められたのは00年のシドニー五輪、その出場に向けた予選大会からである。

当時の全日本の主力選手はプロが参加することで、それまでのパワーバランスが大きく崩れる
ことを既に把握していた。それは98年秋のアジア大会での野球決勝での経験だ。日本は上原、
二岡をはじめとした主力選手がプロ入りのため代表を離れて、入れ替えをせざるえなかった。
一方で韓国はパク・チャンボ(当時・ドジャース)をはじめとしたプロ主体の編成で望んだ。
結果は先制打者の本塁打の1点しかとれずじまい、13-1というコールド負けを喫した。

五輪予選前から大田垣監督(当時)は大敗の経験を生かしてないチーム編成事情に苦しんだ。
当時、中学生だった私が買い集めていた資料での各証言によると、監督の意図の介せない部分
でのプロ派遣選手も決まっていたようで、しかも予選はぶっつけ本番での実戦という完成度は
言うに及ばない「試行錯誤」の全日本チームだった。それでも、松坂-古田バッテリーの奮闘
もあり、韓国に次ぐ予選2位で突破する。本大会に進めたが、大会前に古田の派遣中止を決め
るなどセ各球団の不協力姿勢が明確に現れたりと、予選以上に苦しい編成を強いられることに。

本戦は4勝3敗で4位で予選を突破しながらも、3位決定戦で韓国に敗れ、4位に終わった。
余談となるが、この五輪の二試合で松坂を打ち砕いているのがイ・スンヨプ(現・巨人)だ。

現在になって振り返ってみると、準備万全のキューバ・韓国、若い才能ある選手に経験を
積ませることをベースにしてベテランとの融合、ラ・ソーダ監督という名将が率いたアメリカ
と比較すると1枚も2枚も落ちる戦力だったと私は考える。専門誌も「金メダルを目指して」
と煽ってはいたものの、冷静に分析してみると、厳しいレベルにあったことは理解できる。

■ ここまでの「現状分析」のまとめ:シドニーという一つの分岐点
以上のように、日本が競技開始から5大会目にして初のメダルなしに終わった衝撃は、その後の
「長嶋ジャパン」組閣にも見えるように、野球大国の権威をぐらつかせたのは言うまではない。

プロ解放と敗戦により、私は日本野球のピラミッドの枠内から五輪野球の概念が外れたことで、
日本国内に従来からある五輪至上主義の価値観にも触れあうこととなり、代表の意味に対し、
大きな変化をきたしたのではないだろうか。次回、これについて書くときは、現状分析として、
長嶋ジャパンから星野ジャパンについて書いていこう思う。

以 上

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