「モノローグ」と「家族」をテーマにした私的「みなみけ」論
2008年10月21日 エッセイ コメント (2)
周囲も落ち着いた頃だろうと、9月になってから思い立ったように見る。
現在、『おかわり』も近所のツタヤで揃ったので少しずつ見ていたりする。
自分がいたサークルの先輩方から諸説聞いてはいる作品であるが、2クール目
に入って制作サイドもチェンジしたことで、一応ここで一区切りしてみようと。
今回、自分が取り上げるのは、あくまでアニメ作品の構造的な部分であり、
『おかわり』を見ている最中ということもあり、内容については語らない。
◇ 私の視点(1):冒頭モノローグのもつ意味
よく考えてみると、2クール目になって何故かなくなっているのだが、
この第1クールの番組冒頭、OP前にこのようなモノローグが流れている。
「この物語は南家3姉妹の平凡な日常を淡々と描くものです。
過度な期待はしないでください。」
自分も視聴しだした当初は、このモノローグを流してみていたのだが、
学部時代の先輩との対話の中で「(モノローグを)前提条件として捉える」
という視点を得ることができた。ここから私の一つの見解が生まれてきた。
元来、冒頭のモノローグというのは物語の入口に過ぎない。
あくまで、多くは語らず、物語の立ち位置とはこうなのだとガイドする役割でしかない。
しかしながら『みなみけ』のモノローグは、それよりも一歩進んだ解釈をとることができる
それこそ「平凡な日常を淡々と描く」という「前提条件」なのである。
この作品の特徴は、物語のテンポの良さでもなく、秀逸なギミックでもなく
どこにでもある日常性であり、本編を語るならまさに「平凡な日常」である。
この構成、『レッドカーペット』などでの世界のナベアツのネタに近いのではないかと
私は考えている。多くは語らなくてもいいと思うが、渡辺さんの有名なネタといえば
3の倍数と3が付く数字のときだけアホになります
だと思う。この持ちネタを少し冷静になって考えてみると、冒頭で渡辺さんが
このことを言わないで始めたらどうだろう。アホ顔になれば面白いかもしれないが、
よくツボはわからないだろう。つまり、これもまた冒頭のネタ振りは前提条件なのだ。
物語とは、キャラクターやプロセスを通じて、作品を説明していくことが一般であるけども、
『みなみけ』やナベアツはプロセスではなく、最初から条件提示をした上で作品を見せる。
これはキャラやギミックとは異なった、ある意味で新しいアプローチ方法ではないだろうか。
◇ 私の視点(2):擬似家族としての南家
もう一つ、私が気になったのは中盤以降で構成される大所帯となった南家の姿だ。
本編では語られることないが、両親がいない南家は三姉妹で生活をしているようだ。
そんな南姉妹の家には中盤以降の物語の中で、千秋の同級生のマコちゃんと冬馬が
毎日のようにやってきて夕食を共にする。私は、擬似家族という印象を持ったのである。
視聴当初、南家の構図は『苺ましまろ』における伊藤家に似ていると感じていた。
しかし、伊藤家には父(=伸恵姉ちゃん)はいても母がいないことに気がついたのだ。
南家において、家事料理をこなす長女が母であるならば、家庭内におけるダメさ加減を
体現する次女は父親として、そして父に嫌悪(もちろん根源的なものではない)を抱き、
優しい母にあこがれる三女は娘であり、その弟と妹が冬馬とマコちゃんとなるのである。
さらに、私が次女が父と想定するのはもう一つ理由があり、それこそマコちゃん、弟・冬馬
という設定を内部的に確立させたのは紛れもなく香奈であり、まさに作りの親なのである。
話が進むにつれて、虚実が入り混じった大家族は完成度を増していき、作品の特徴たる
日常性さえ滲ませる違和感の無い空間を作り出した。前述のように、世界観という外枠を
プロセスを放棄したのに対して、南家という内枠をプロセスで拡大させていったという意味で
は非常に興味深い構図だったと思う。
最後に、今回の視点や私見というのは、先輩方とダイアローグや他ジャンル
への視点があったからこそ考えることができたものである。馬鹿話に付き合って
ナギーさんをはじめ先輩方への謝辞を述べるとともに、今後も自分なりの視点と
いうのを追求していきたい。まぁ、とにかく今は『おかわり』ですな。
現在、『おかわり』も近所のツタヤで揃ったので少しずつ見ていたりする。
自分がいたサークルの先輩方から諸説聞いてはいる作品であるが、2クール目
に入って制作サイドもチェンジしたことで、一応ここで一区切りしてみようと。
今回、自分が取り上げるのは、あくまでアニメ作品の構造的な部分であり、
『おかわり』を見ている最中ということもあり、内容については語らない。
◇ 私の視点(1):冒頭モノローグのもつ意味
よく考えてみると、2クール目になって何故かなくなっているのだが、
この第1クールの番組冒頭、OP前にこのようなモノローグが流れている。
「この物語は南家3姉妹の平凡な日常を淡々と描くものです。
過度な期待はしないでください。」
自分も視聴しだした当初は、このモノローグを流してみていたのだが、
学部時代の先輩との対話の中で「(モノローグを)前提条件として捉える」
という視点を得ることができた。ここから私の一つの見解が生まれてきた。
元来、冒頭のモノローグというのは物語の入口に過ぎない。
あくまで、多くは語らず、物語の立ち位置とはこうなのだとガイドする役割でしかない。
しかしながら『みなみけ』のモノローグは、それよりも一歩進んだ解釈をとることができる
それこそ「平凡な日常を淡々と描く」という「前提条件」なのである。
この作品の特徴は、物語のテンポの良さでもなく、秀逸なギミックでもなく
どこにでもある日常性であり、本編を語るならまさに「平凡な日常」である。
この構成、『レッドカーペット』などでの世界のナベアツのネタに近いのではないかと
私は考えている。多くは語らなくてもいいと思うが、渡辺さんの有名なネタといえば
3の倍数と3が付く数字のときだけアホになります
だと思う。この持ちネタを少し冷静になって考えてみると、冒頭で渡辺さんが
このことを言わないで始めたらどうだろう。アホ顔になれば面白いかもしれないが、
よくツボはわからないだろう。つまり、これもまた冒頭のネタ振りは前提条件なのだ。
物語とは、キャラクターやプロセスを通じて、作品を説明していくことが一般であるけども、
『みなみけ』やナベアツはプロセスではなく、最初から条件提示をした上で作品を見せる。
これはキャラやギミックとは異なった、ある意味で新しいアプローチ方法ではないだろうか。
◇ 私の視点(2):擬似家族としての南家
もう一つ、私が気になったのは中盤以降で構成される大所帯となった南家の姿だ。
本編では語られることないが、両親がいない南家は三姉妹で生活をしているようだ。
そんな南姉妹の家には中盤以降の物語の中で、千秋の同級生のマコちゃんと冬馬が
毎日のようにやってきて夕食を共にする。私は、擬似家族という印象を持ったのである。
視聴当初、南家の構図は『苺ましまろ』における伊藤家に似ていると感じていた。
しかし、伊藤家には父(=伸恵姉ちゃん)はいても母がいないことに気がついたのだ。
南家において、家事料理をこなす長女が母であるならば、家庭内におけるダメさ加減を
体現する次女は父親として、そして父に嫌悪(もちろん根源的なものではない)を抱き、
優しい母にあこがれる三女は娘であり、その弟と妹が冬馬とマコちゃんとなるのである。
さらに、私が次女が父と想定するのはもう一つ理由があり、それこそマコちゃん、弟・冬馬
という設定を内部的に確立させたのは紛れもなく香奈であり、まさに作りの親なのである。
話が進むにつれて、虚実が入り混じった大家族は完成度を増していき、作品の特徴たる
日常性さえ滲ませる違和感の無い空間を作り出した。前述のように、世界観という外枠を
プロセスを放棄したのに対して、南家という内枠をプロセスで拡大させていったという意味で
は非常に興味深い構図だったと思う。
最後に、今回の視点や私見というのは、先輩方とダイアローグや他ジャンル
への視点があったからこそ考えることができたものである。馬鹿話に付き合って
ナギーさんをはじめ先輩方への謝辞を述べるとともに、今後も自分なりの視点と
いうのを追求していきたい。まぁ、とにかく今は『おかわり』ですな。
コメント
まず、マコちゃんは確かに南家によく来ていますが、夕食まで共にすることは稀だと思います。(マコちゃんはマコトが女装しているだけですから、長居するのは立場的にまずいと思います。勢いで一緒に風呂入ろうみたいなことになりかねない。)つまり、マコちゃんは内田や吉野同様、客人と考えるほうが自然だと思います。それに対して、実は藤岡のほうが夕食を共にすることが多いと思います。
次に、夏奈を父親とすると、せっかく姉が2人いるにもかかわらず、疑似家族の構造に「姉」がいなくなってしまいます。また、弟・冬馬の設定を確立したのは夏奈とありますが、これは千秋と考えるのが自然でしょう。実際冬馬を弟として連れ込んだのは千秋ですし、この設定に関して夏奈は積極的に干渉することはしていません。
そこで、私の見解ですが、藤岡を父親、夏奈はそのまま姉と想定するというものです。このとき、千秋視点では両親プラス姉弟がそれぞれ一人ずつそろうので、構造的に非常にすっきりすると思います。
あくまで私の見解ですが、いかがでしょうか?
ご意見に対する感想を述べさせていただきたいと思います。
まず、端的にマコちゃんの滞在時間については自分のミスですね。
何となく、夕食の手伝いとかをしている描写が多いと感じていたので。
時間を見つけて、各キャラクターの滞在時間については確認してみます。
ご指摘ありがとうございました。
次に「藤岡の立ち位置をいかに定めるか?」という点では、私見では
取り入れなかった視点でした。なので、非常に「目から鱗」な見解です。
このモデルは、非常に説得力があるものだと思います。
また、自分とゆういちさんの疑似家族性を作り出す要素に対する見解に、
もしかしたら少々の相違があるのかもしれない、と思いました。自分は、
疑似性を作り出す要素が「家族の役割・立ち位置」とも考えていたので。
「<両親と子>の構造が三姉妹の関係性に内在するのでは?」という視点
から考え始めたところなので、ゆういちさんの述べた「姉・弟」部分まで
考えが及ばなかったのは、やや検証が足りなかったところですね。
最後に、本論のように、この作品について思考するのは知人に「おかしい」と
言われたこともありますが、同じように考え、意見する人がいらっしゃっる方が
いることを知れたのは何よりも嬉しいことでした。重ねて、御礼申し上げます。